藍青

〜晴れ時々日記〜 SHOがつづる短歌、旅行などなどの日記です。
香川県に住んでいるバイク好きです。愛車ヤマハYZF-R6の話も、書いていきます。
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私は獣
深夜に、飲み物を買いにコンビニまで行って来たら、雪が降っていた。まだ積もるような雪ではなく、
白根山から飛んできた風花だと思うのだけれど、今日は白根山は一日雪が降っていた。数日前から
少し厚着に切り替えたのだけれど、零下になっているせいか、それでもまだ寒い。そろそろズボンも
2重にしないといけないかな、と思いながらコンビニまで徒歩15分、林に囲まれた道を歩いていると
ゾクゾクしてくる。別に寒いんじゃなくて(それも多少あるけど)、ここに住んでいるのに、まるで
自分が旅人としてここに来ているような気分。この夜道を、どこまでも続く上り坂をバイクで走ったら
やっぱりゾクゾクするだろうな。

昨日の夜10時から21時間連続で起きていて、今晩は7時に寝て12時前に起きたところ。昼から風呂に
入って、それから大家さんのところに遊びに行って、夕食までワイワイしゃべっていた。草津では
12月半ばから3月半ばまではバイクに乗れないけれど、それ以外の期間はバイクに乗れるらしい。
そろそろ、時間帯や天候、気温に気をつけてバイクに乗らないといけない季節だけれど、年間で9ヶ月
乗れれば、車と原付を比べると維持費の問題で原付だなぁ。保険代も原付オンリーの方が安いし。

夜道を歩いていると、肌を刺すように冷たい空気が気持ちいい。私のキーワードの中に「五感で
感じるもの」という言葉があったけれど、適切な防寒対策をとれば今晩などは夜間ツーリングに
最高だ。気温はマイナスでも、今晩は道路凍結の心配はないし。月に照らされて路面は明るいし。
五感で感じる土地の感触とか風、匂い、音と言ったものが、私にとっては旅のみならず重要な要素。
夜間でも、目が冴えていれば遠く山肌の雪や谷間に降りてくる雲まで見分けることができる。

林に囲まれた夜道を歩きながら旅のことを考えていると、私の脳裏に、これから向かおうと考えている
旅の光景が次々にフラッシュバックのようにビジュアライズされていく。おそらく、私はこの旅に
間違いなく出るのだろうな、と思う。ゆるやかに林の中を登っていく夜道を歩きながら、もうひとつ
別の次元(と言えばいいのかな。ふたつの世界が同時に重なり合いながら進行していく感じ)で旅の
景色が次々に浮かんでは消えていく。そして、必ずこの旅に出るというテンションが高まっていくのだ。

手前味噌だけど、今住んでいる場所でありながら毎日旅を感じることのできる場所、というのは私に
とってパラダイスだ。普通の人は旅で来る場所に住んでいるからだけど、五感で自然の息吹を感じると
心が震える。この街に住んで、私は毎日感動することばかりだ。こういう感覚が、人生をどれだけ豊かに
してくれることか。コンクリートジャングルでは遮蔽され隠蔽されている、生の自然がここにはある。

この世界では、生き物は大自然の中で生かされているに過ぎないのだ、という自分の存在の小ささを
感じる。大循環の中のほんの小さな一部分に過ぎない自分を、とても愛おしく思う。そして自然の大きさ、
偉大さも感じる。そういう感覚は、私にとって快感だ。生きている喜びというものがあるとすれば、
こういう瞬間だろう。こんな瞬間を味わうために草津に住んで生きている、と言っても過言じゃない。

新月の夜ほどじゃないけど、降ってくるような星。照る月。遠くの山肌を、闇の中から谷間へ降りて
くる白い雲。今晩も峠ではきっと雪が降っている。それら全てがキーンと静まり返って、大自然の中で
沈黙しながら呼吸している。それを自分一人で独り占めしているような贅沢な瞬間が、ここにはある。
こんな瞬間に出会いたくて、私は草津に住んでいるのだと思う。湯治という目的だけじゃなくて。
もっと大げさに言えば、そういう瞬間にたくさん出会いたくて私は生きているのだ。

私にとって肩身が狭く、時に鬱陶しいのは「旅の目的は、人に出会うこと」って文句が旅の雑誌には
満ちあふれていること。雑誌だけじゃない。旅行番組でもNHKの「鉄道乗りつくし」でもそうだった。
ページをめくるとおじいさんやおばあさんの笑顔がどこからも飛び出してくる。私はそういう風潮が
嫌いだ。旅先にやってくる旅行者なんて、地元の人にしてみたら闖入客以外の何者でもない。どこかで
一線を引かざるを得ない部分がある。笑顔と出会いがなんぼのもんじゃい、と一蹴したい気持ちになる。

圧倒的な大自然と大循環の景色に出会いたくて旅に出るんじゃないのか。自分の小ささも自然の偉大さも、
五感で対面しないと分からない部分というものが確かにある。自然と生活が切り離されていることと、
生きている実感の喪失とは大いに関連があると思う。毎日大自然に感動していれば、のべつまくなし
人との出会いがなくても人は生きていけるのだ。大自然のエロスってそんなものだと私は思う。

五感を研ぎ澄ます感覚が私は好きなのだ。私の目は暗闇に沈む遠くの山肌の雪や雲まで見分ける能力を
持っている。遠くの雪の匂いを嗅ぎながら夜道を歩くとき、獣の野生を呼び起こされる。私もまた獣だと
五感で感じるのだ。血が騒ぐと言ったら分かりやすいかもしれない。血は騒いでも、気がつくと私と
周囲の自然との間にある見えないバリアのようなものがなくなり、私の気と周囲の自然の気が地続きに
なってしまう。そうなってしまうと、身体は寒さを感じるのだけれど寒さを感じない。矛盾している
けれど、そうとしか言いようがないような、一体感というにしてはあまりに自然な感覚になる。これが
生きている喜びでなくて何であろうか。

山村雅康さんが、「六本木とアフリカの沙漠」という文章の中でこんな事を書いている。

田舎が、都会が、という区分けはもはやナンセンスだといった。
そうではなく、この場所が、この仕事が、自分に合っているか
どうか、好きか嫌いかどうか、そういった問題なのである。
覇気がないのは、たぶん合っていないのだ。その、合っていない
不幸(といっていいだろう。大きなお世話かもしれないが)な
人々というのは、言うまでもなく六本木にだけ限ったことではなく、
ここ朝霧だって勿論のこと、日本中で見られることではあるのだが。
 

彼の言っていることは、私にはよく分かるつもりだ。コンクリートジャングルにいると、私は酸欠で
水面に出て口をパクパクしている魚になってしまうのだ。だんだん元気がなくなってくるので長くは
いられない。おそらく、東京も仙台も私には合っていなかったのだ。私にとって本当に合っている
土地は、ここ草津であり、高専時代に住んでいた山口県の周防大島なのである。

私が修験道が好きなのは、修験道は山水草木教だからだ。特定の偶像ではなく、大自然そのものを敬う
宗教だからこそ私の感覚にぴったりくるし、私も自然に手を合わせて頭を下げる気になる。草津は古い
修験道の霊地のひとつだ。今は草津の修験道は廃れてしまったけれど、草津に修験道を育んだ土地の気は
今も草津にも白根山にもそのまま残っている。ここが古い修験道の霊地であった、ということが、肌で
実感として感じられるのだ。

来週末、断食修行のために吉野に行くことが決まった。吉野へ行くのは9ヶ月ぶり。2度目の断食修行だ。
いつから吉野に行こうか、今から楽しみにしている。
| SHO | 修験道 | 02:16 | comments(0) | trackbacks(0) |

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