藍青

〜晴れ時々日記〜 SHOがつづる短歌、旅行などなどの日記です。
香川県に住んでいるバイク好きです。愛車ヤマハYZF-R6の話も、書いていきます。
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吉野・天河お参り弾丸ツアー
7月15日 653.4km

いろいろ悩むところあり、日曜日の朝から吉野と天河にお参りすることにした。9時15分に丸亀を出発。片道300km、所要5時間と見積もって、現地に2時間滞在しても21時帰着と見込む。

坂出IC手前のENEOSで給油して、9時32分に坂出ICから高速に乗る。暑い!でも、今日初めて使ったモトクロスジャージの威力にびっくり。ハーフメッシュのジャケットを着ているのに、まるでフルメッシュのジャケットを着ているかのように涼しい。

10時09分に鳴門西PAで休憩。今日はこれから淡路SA、朝潮橋PAと休憩して吉野を目指すつもり。途中の給油は淡路SAのみ。鳴門西を10時25分に出発して、小鳴門の撫養の瀬戸を渡るところで強風に気づいた。「あれ?」と思ったものの、そのまま進行。大鳴門橋は予想通り強風。10m/s近くは吹いていたはず。大鳴門橋は渡れたけれど、この風だと明石海峡大橋は…。

明石海峡大橋を渡る前に注意していたら、まだ対向車線をバイクが走ってくるから走れるのだろうけれど、11時10分に淡路SAに着いたら風が強くて明らかに10m/s以上吹いている。大阪湾海上交通センターのサイトを見たら、淡路島北端の江崎で14m/s。これってバイク通行止めの一歩前じゃん!

いまさら引き返せないし、淡路SAで降りても頼みのたこフェリーは廃止されてしまった…。覚悟を決めて渡るしかない。不便な時代になったものだ。

給油を済ませて11時29分に出発。トラックの後ろを渡ったところ、うまく風を遮って渡ることができた。風が強いのは淡路島側で、本州側はそうでもないことはサイトを見て分かっていたので、橋の終わる手前でトラックの陰から出てトンネルに逃げ込んだ。R6は横風に弱くて、本当に橋の上では困る。

垂水JCTで第二神明道路に入り、渋滞をすり抜けて京橋ICで高速を降りる。ハーバーハイウェイから高速5号湾岸線に入った方が片側3車線で速いし、朝潮橋PAで休憩できるので、湾岸線で一路大阪へ。風はある程度あるものの、走れないほどではない。

12時22分に朝潮橋PAに到着。トイレ&飲み物休憩だけで12時30分に出発。もっと朝早くに出れば良かったのだが、出発が朝の9時過ぎでは遅すぎる。普段のように前夜に出発できなかったのは、昨日が進水のため昨夜はドックで排水トラブルが起きる可能性が高く、スクランブルに備えて朝まで自宅待機していたためなのだが、朝の5時半には起きていたのに…。

朝潮橋を出ると、中央大通の上の阪神高速で長田に向かい、近畿道に乗り換えて羽曳野へ。南阪奈道で畝傍まで走り、畝傍からは国道168号線。いつものルートなので、もはや地図も要らない。吉野も天河も、もう何回も来ているものなぁ…。

日曜日なので、山間部に入る前に大淀で給油。帰りの時間が少し遅くなったら、天河や黒滝周辺では燃料補給ができない可能性が高い。13時59分に吉野山金峯山寺に到着。蔵王堂にお参りしていたら、執行長とのアポが取れたので事務所で面談。

1時間ほど面談してから再度蔵王堂にて参拝していたら、さらに1時間が過ぎてしまい、16時02分に金峯山寺を出発。黒滝に抜ける裏道を通って天河神社に着いたのが16時42分。

翌日から夏季大祭のため準備で華やぐ天河神社にお参りして、おみくじを引いたら、なんと「凶」!たぶん8回目の天河にして初めての「凶」だけど、その後となるほどと納得することが、お参りの後でいくつも起きるのである…。天河神社恐るべし。ここは普通の場所とは全然違うのだ。本当に本当に、ここは不思議な場所で絶対に何かある。

奈良の山奥にいるのに会社の電話などかかってきたりして、対応しているうちに17時を過ぎてしまった…。17時32分に出発する。どういうわけか、天河に来る時はいつも見えない関門をいくつもくぐる感じがする。時間的にも精神的にも、なぜかあまり余裕があった覚えがない。

17時32分に出発。一路今まで来た道を戻る。黒滝、下市と走り、大淀から168号線で畝傍に戻るのだけれど、下市から天河への道は、私が知っている最近10年間だけでもかなり良くなった。さらに拡幅工事中で、あと10年したらさらに道が良くなるのだろう。行きやすくなるのは嬉しい反面、天険に囲まれた土地ならではの情緒がなくなることに寂しい思いもある。初めて天河に「呼ばれて」から、もう10年になった。

畝傍御陵前のローソンで休憩して、南阪奈道に再び乗る。今度は近畿道〜中国道で19時36分に西宮名塩SAに到着。夕食にざる蕎麦を食べて、給油して20時09分に出発。明石海峡の風はますます激しく、19m/sに達しているので帰りは岡山から瀬戸大橋を通ることにする。

山陽道に入ると、増設したヘッドライトが大活躍。夜間のヘッドライトの光量が全然違う。峠を越えて岡山県に入って、福石PAに21時06分に到着。トイレ&飲み物休憩だけで21時16分に出発。瀬戸大橋の風は強くなく、22時06分に坂出北ICで高速を降りて、22時20分に帰宅。走行距離は653.4km。

最近、よく考えるのが宗教のこと。私は10年前に天河神社へ「呼ばれた」のをきっかけに修験道と関わるようになって今に至るのだけれど、「なぜ修験道なのか」ということを自覚的に考えるようになったのがつい最近のこと。今までそんなに意識しないで修験道の数珠を持っていたけれど、「なぜ修験道なのか」ということを考えざるを得ない出来事が最近あって、それで悩んで今回も吉野と天河にお参りした。

そしてお参りして思うのは、ここは私にとって心の拠りどころになっている場所だということ。そして、特に天河は、やはりここは普通じゃない。絶対にここは何かある場所なのだ。うまく表現できないけれど…。
| SHO | 修験道 | 21:56 | comments(0) | - |
神下ろし
鎌田東二『宗教と霊性』読了。実家にあるジェームズ・ラブロックや
ライアル・ワトソンの本が読みたい。昔はよく分からなかったけれど、
今ならもっと分かるだろう。

短歌を詠む時に、私は神下ろしをすることを思い出した。神下ろしと言っても
オカルチックなものではなく、気を研いて周囲の気と自分の気を渾然一体に
すると言うか…。穂村弘『短歌という爆弾』で触れられている私の即詠
パフォーマンスはそうやって生み出されたものだ。神下ろしをしなきゃ
5分で8首の歌は詠めない。

| SHO | 修験道 | 00:55 | comments(0) | - |
宗教はどこへ行くのか
レイキ使いになるとは、修験道でいう験力を身につけることと同じである。
つまり、私を含むレイキ使いは全然修行をしていないにも関わらず験力を
使えてしまうわけだ。誰でもレイキを使えてしまうと、激しい修行を重ね
なければ験力を使えない時代ではなくなってしまう。

ここで宗教の役割ってなんだろう、と考えてみる。レイキの普及は宗教の
本質的役割のひとつである祈祷の個人化をもたらす。験力を身につけた
修験者や占師にお願いするのではなく、個人で自らを本来向かうべき方向に
導けるようになった時、寺社の大伽らんはその宗教的意義を失う。荘厳な
建物は「だから何?」と言われてしまうのだ。

個人が自らが神であることを悟るようになった時、宗教は何らかの変容を
迫られるのではないだろうか。絶対的存在というよりは、神である個人の
統合の象徴として、あるいは自らの霊性を高める場所としてその役割を
果たすことになるのではないだろうか。

既にその役割を果たしている場所として奈良県天川村の天河神社を挙げたい。
神道の形を取ってはいるが、宗教の枠を超えてあらゆる宗教の人が訪れ、
共に礼拝する場所として存在している。個人の単位で人が霊性を高め始めた
現在、その受け皿として宗教は絶対的な存在から個人が集合して霊性を
高める場へと、その意義を変容させるのではないだろうか。
| SHO | 修験道 | 05:17 | comments(0) | - |
レイキ伝授その後
先週の金曜日にレイキの伝授を受けた。伝授の前後で劇的な変化は今のところ
ないのだが、レイキの歴史に出てくる話や伝授の際に私のオーラを見て
言われたことが、後から改めて裏付けられて驚いている。

先週帰省した時に、シャーリー・マクレーンの『アウト・オン・ア・リム』と
『ダンシング・イン・ザ・ライト』、五来重の『山の宗教 修験道』などを
持ち帰った。私は不動明王のパワーを受け取っている、とティーチャーから
言われたのだが、山伏は大日如来と不動明王と一体なりと教えており、
山伏の格好は不動明王の尊容を象っている。私に非常に縁のある数字は3
なのだが、3という数字は修験道でも大事な数字である。吉野大峯修験の
ご本尊である金剛蔵王権現とは三仏が一体となって現れたものだ。

さて、悩んでいることがある。今年7月の蓮華奉献入峯に参加するか否か
ということである。

私の本質が行者であれば参加すべきであろう。山の行より里の行、と
言いながらも、山に入らなければ山伏ではなく、行者とも言えまい。
しかしながら、今は日本一周に備えて貯金している身である。往復の交通費を
入れて数万円かかる修行への参加は、日本一周にかなりの資金的打撃を
与えかねないのである。

しかし、決して修験道に明るいとは言えないティーチャーから、私が
不動明王からパワーを受け取っているとの話が出ると(つまり、それは私の
オーラのみを見て言っているのだ)、やはりその実在を信じないわけには
いかない。私が伝授を受けている最中に、私には分からなかったけれども
別のオーラがやって来た、という話もある。

修験道の目的である即身成仏の考え方も、レイキを通じてどうなる、という
ものの見方と合致していて興味深い。修験道では、行者の修行は大日如来
または不動明王そのものになるのが目的であり、その験力は仏の力を降臨
するのではなく、自らが仏として験力を行使するのである。レイキでは
自らが神であり生きとし生けるもの全てが神であることに気づくことに
結果としてなるらしい。それがレイキの目的ではないが、結果として気づか
ざるを得なくなるようだ。

私達が自ら験力を使えるのも、修行を積んだ行者が験力を使えるのも、
そして修験道の行者が祈祷師として昔から現実生活の民間信仰に深く関わって
きたのも、レイキを知るにつれてそれらは事実だと納得をせざるを得ない。
人々の現実生活に関わる祈りに応えられない宗教では宗教の意味がなく、
そして迷信と言われようとも修験道とその行者は庶民の祈りの要求に良く
応えてきたのである。
| SHO | 修験道 | 02:09 | comments(0) | - |
レイキ・ヒーラーと指命
一昨日、レイキの伝授を受けてレイキ・ヒーラーになった。

レイキの伝授を受けている間、私に浮かんだビジョンは、初めに
オーストラリアからアフリカ、シベリア、そして北海道へと変わって行った。
そして北海道のどこなのか、私は場所が判明する前から分かっていた。私は
山の頂上にいて、ティーチャーに右手を預けた時に
オホーツク海が、左手を預けた時に日本海と利尻島、礼文島が、両肩に
触れられた時に宗谷岬が見えた。ビジョンの場所は函岳山頂だ。そして
旅の相棒であるバイクもはっきり見えた。青いカワサキ・アネーロだ。
最後に見たビジョンは寺の山門だった。場所は羽黒山だ。

私の基本色は青、緑、白。青は海原、緑は大地、白は天空を表している。
特に私が好んで身につける色は青と白で、ネイビーブルーという色には
人生全体ですごく縁があるのだが納得した。

私に伝授をしている間、ティーチャーが見ていたビジョンによると、私は
日本一周でたくさんの港と神社と岬に行くそうだ。舗装された気持ちのいい
林道を走るビジョンや海と山の境目の道や、光と影のたくさんある森を走って
いるビジョンもあって、私が跨っているバイクはやはりアネーロだそうだ。

私は何者なのか知りたい、という問いの答えは、私は行者なんだそうだ。
オーラは白い炎のようで、光の筒が天から真っ直ぐ下りて来ているそうだ。
不動明王のパワーと力を受け取っていて(ちなみに不動明王は行者の守護神)
私が鈴懸(行者が山で修行をする時に着る修行着)のを着ているイメージが
容易に浮かぶそうだ。でもガチガチに固くならなくていいらしい。

私の内臓が「オレ達の声を聞いてくれ」と言っているそうだ。理想を持つ
ことと理想でしばることとは違い、「こうでなければならない」との軋轢が
体内に発生しているそうだ。背面が頑張り屋さんでネガティブエネルギーが
溜まりがちで、意識して背面を緩ませることが大事だそうだ。許し、今の
状態で完璧です、今の状態でいい、否定することはない、という内臓からの
メッセージを受け取ったそうだ。

病気は体内の怒りの浄化作用から来ている、というメッセージや、日本一周の
目的は、日本の各地を回り、土地土地を浄化、祝福することにある。それは
使命である、というメッセージは後から受け取った。

| SHO | 修験道 | 16:28 | comments(0) | - |
ハレの時間
new Aeon
new Aeon
Yae

先日、実家に帰ったときにyaeの『new Aeon』をCDで持って帰ってきた。今まではパソコンにしか
入っていなかったのだ。今、聴いているのだけれど、いい。相変わらず良くて、独特の世界に
引きずり込んでくれる。このアルバムの収録曲が天河神社でライブされたと言うのが納得できる
世界を持っていて、いかにも天河神社が好きそう(天河神社に縁のある人にも好かれそう)な
曲の世界を持っている。どう説明したらいいのか分からないけれど、とにかくそうなのだ。

草津はすっかり暖かくなった。
暖かい、と言っても昼間の気温がようやく零度を超えるようになった程度で、夜間はまだ零下まで
下がる日の方が多いのだけれど、路面の雪が融け、屋根の雪が融け、次第に春が近づいてきたことを
感じる。今月は仙台に行く以外は節約生活して、来月には原付を買いたい。

自分に対しての深い問いかけができる、と言うのはこの仕事のいいところだ。夜間、ひとりきりか
せいぜいふたりで仕事をしている。相方も無口な方なので、彼が冗談を飛ばす時でなければ、夜の
事務室はとても静かである。深夜、耳で当直しているので気配とかすかな物音に耳を凝らしつつ
考えている時間が長い。

7月の蓮華入峯修行には参加したいと思っている。2年ぶりに大峯山に登拝する、と言うことだ。
なぜ参加するのか、と言われたら、修験道の重要行事だから、と答えるしかないのだが、
大峯山の、独特の空気が好きだからでもある。行場独特の空気で、女人結界門をくぐると
とたんに空気がガラッと変わる。凛として背筋が思わず伸びるような、そんな空気だ。

私はそれだけでも女人結界を今後も残すべきだと思うが、遺憾なことには男女差別だとして
一部の人権保護団体から槍玉に上がっている。宗教的伝統であり、修験道最大の霊山である
大峯山が女人禁制なのは女性を貶めているからでは全くないのだが、「女人禁制」と言う
だけで「男女差別だ」と反応する人がいる。全く愚かなことだ。

なぜ入峯修行を求めるのだろう。それは、修行とは「ハレ」の場だからだ。「ケ」の日常を
抜け出してより大きなものに一心不乱に身を投げ出す行為そのものがハレなのである。
人によっては、コンサートの場がハレの人もいるだろうし、旅に出ている時間がハレの人も
いるだろう(私がそうだ)。ラリーに参加している瞬間がハレの人だって、いるに違いない。

行に入る時の戒めに「行の回数でその人を量るな」と言うものがある。いい加減な気持ちで
行に入るな、何度行に入ったことがあったとしても、心のゆるみを持って行に入るな、
初参加の人も、一心不乱に行に励んだならば、一回の参加でも何ら畏まる必要はない。
と言うことだ。「行の回数」を「年齢」と置き換えても良いが、いたずらに年齢を重ねる
ことが、必ずしも心の成長を意味するものではないことに気づく人は多いだろう。

行に入る以上、経験の多少に関わらずその人は山伏である。そして、山伏である以上は
年に何度かは、せめて一度は山に入るべきだと私も思う。山に入るとは、自分が山伏である
ことを確認し、全身で自然の息吹を感じて精一杯拝み倒すことでしか得られない何かを得る
ための大事な時間なのである。私は得度もしていなければ信徒として正式に登録している
わけでもないけれど、ハレの時間を持つために修行に参加すべきだとはいつも思っている。
| SHO | 修験道 | 15:43 | comments(0) | - |
天河・吉野行き決定
ようやく来週の予定が決定。11月23日に、天河神社の祭りに行くことが事実上決まった。9ヶ月ぶりだ。
天河神社に行くのは今回が3回目。3回来て初めて天河の本当の素晴らしさが分かる、とあるホームページに
書いてあったけれど、さて、今回はどんな感じになるのだろうか。アシタバ茶のおばさん、元気かな?

今回に備えて、テントとシュラフとテントマットは準備済み。自転車で行動するので、アタックザックを
今回は用意している。今の天河の気候では夏用のシュラフでは対応できないので、今回も春秋用のかさばる
シュラフを持っていくことになりそうだ。自転車を使うので、過去2回に比べると相当の自由度を持って行動
できる。24日が一日フリーになるので、前回は行けなかった丹生川上神社下社にも行きたいと思っている。
25日の夕刻までに吉野に行けばいいのだけれど、24日の夕食以後は断食修行に入るので、身体に負担の
かかる自転車での行動はしない。テントで2泊することになるので、さてどこで泊まろうか?

初めは「青春ドリーム」か長岡回りで急行「きたぐに」での天河入りを考えていたのだが、草津温泉の
バスターミナルへ行って、気がつくと「ムーンライトながら」の指定席を押さえてしまっていた。今回は
自転車を持っているので、往路は珍しく近鉄特急を名古屋から使おうかな。

天河神社へ直通するバスは1日に3本しかないし、午前中に天河神社に着きたければ8時45分下市口発の
始発に乗る必要がある。自転車だと洞川温泉行きに乗って天川川合から自転車という手も使えるので、
9時15分か10時15分に下市口を出るバスに乗ればいい。どちらの便に乗るにしても名古屋からだと
特急を使う必要がある。3年前の初訪問時は名古屋から津まで乗って急行に乗り継げば良かったところが、
近鉄特急の時間が10分繰り下がったため最低でも名張まで乗らなければならなくなった。それなら
下市口まで全区間特急を使っても300円しか変わらない。だったら今回の往路は全区間特急かな、と
思ったのだ。天川川合まで行ってしまえば、天河神社まで自転車なら15分か20分くらいで行ける。
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| SHO | 修験道 | 17:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
私は獣
深夜に、飲み物を買いにコンビニまで行って来たら、雪が降っていた。まだ積もるような雪ではなく、
白根山から飛んできた風花だと思うのだけれど、今日は白根山は一日雪が降っていた。数日前から
少し厚着に切り替えたのだけれど、零下になっているせいか、それでもまだ寒い。そろそろズボンも
2重にしないといけないかな、と思いながらコンビニまで徒歩15分、林に囲まれた道を歩いていると
ゾクゾクしてくる。別に寒いんじゃなくて(それも多少あるけど)、ここに住んでいるのに、まるで
自分が旅人としてここに来ているような気分。この夜道を、どこまでも続く上り坂をバイクで走ったら
やっぱりゾクゾクするだろうな。

昨日の夜10時から21時間連続で起きていて、今晩は7時に寝て12時前に起きたところ。昼から風呂に
入って、それから大家さんのところに遊びに行って、夕食までワイワイしゃべっていた。草津では
12月半ばから3月半ばまではバイクに乗れないけれど、それ以外の期間はバイクに乗れるらしい。
そろそろ、時間帯や天候、気温に気をつけてバイクに乗らないといけない季節だけれど、年間で9ヶ月
乗れれば、車と原付を比べると維持費の問題で原付だなぁ。保険代も原付オンリーの方が安いし。

夜道を歩いていると、肌を刺すように冷たい空気が気持ちいい。私のキーワードの中に「五感で
感じるもの」という言葉があったけれど、適切な防寒対策をとれば今晩などは夜間ツーリングに
最高だ。気温はマイナスでも、今晩は道路凍結の心配はないし。月に照らされて路面は明るいし。
五感で感じる土地の感触とか風、匂い、音と言ったものが、私にとっては旅のみならず重要な要素。
夜間でも、目が冴えていれば遠く山肌の雪や谷間に降りてくる雲まで見分けることができる。

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| SHO | 修験道 | 02:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
天河神社のこと・再び
以前も日記に書いたことがあるけれど、吉野のさらに山奥、熊野川水系の最上流部にある奈良県天川村に
天河大弁財天社という神社がある。私は今まで2002年9月、2005年3月と訪れたことがあって、吉野に行く
時には必ず前後で行けないか検討している。無理やり行っても効き目のない神社で、この神社に行く時は
運命の赤い糸を引っ張りつつ、いくつもの見えない関門を通り抜けるような旅になる。

でも、天河は玉ねぎの中心みたいな場所で、たどり着いたからといって何かあるわけじゃない。そこには
ただ空がある。見えない関門をくぐり抜けてたどり着いた宇宙の中心は、空なのである。空にたどり着いて、
また釈然としない思いを抱えながら帰路につく、という旅を過去2回は繰り返している。

天河は、心霊世界とか精神世界の人にはパワースポットとして有名らしい。でも、私はいろんな人が言う
ようなパワーを感じたり何かをする、ということはなかった。その筋では有名という宮司の柿坂さんとも、
祭りでお見かけはしたけれど、何か積極的に話したことはない。どちらかと言えば、天河天河と騒いだり
ワークショップを開いて拝んだりする人を、ちょっと引き気味に敬遠している。自分のことを棚に上げて
言うと、天河には天河しかないのに、彼らは天河以上のものを求めているような気がして気持ち悪いのだ。

私は天河神社も吉野も修験道も信仰しているけれど、それは私が信仰しているという個人の問題であって、
他人をそれに巻き込んで一緒に拝みたい類のものではない。天河の神様がいるとしたら、だからこそ私には
個人での信仰という形をもって学ばせているのかもしれない。

私も天河にはとても惹かれるものを感じる。でも、天河はあくまでも天河であって、私には天河以上の
何ものでも天河以下の何ものでもない。天河は天河だ。
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| SHO | 修験道 | 14:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
天河神社のこと
天河神社って知っていますか?正式名称を天河大弁財天社と言うのですが、
奈良県天川村にある、古くからのお社です。

ここは「呼ばれないと行けない」場所だと言われています。そして、行く時には
何らかの意図と言うか、目的、あるいは役目と言ってもいいのですが、何か
呼ばれる理由がなければ呼ばれない。逆に呼ばれた時は、どんなに困難そうに
見えても行くことができてしまう、そんなお社です。

私も2年半ほど前に行ったことがあります。私は典型的な「呼ばれた」パターンで、
夜中に突然天河神社のことを考え始めて、インターネットのホームページを
見たら(日付が変わっていたので)明日が観月祭であることを発見しました。
「行けるかなぁ」とお金を数えて見ると、ギリギリ行けそうな感じ。ただし
旅行中の食費は一日1000円弱と言うすごいプランになりましたが。「マジ!?
本当に行くの?」と思って大学生協にその日の晩の「ムーンライトながら」の
指定席を取りに行ったら、その日の晩の指定が取れてしまいました。

その日は3連休が始まる金曜日。普通なら「ムーンライトながら」の指定が取れる
ような日じゃないはずで、乗ったら指定席はもちろん売り切れ。たぶんキャンセルが
出た瞬間に拾ったんじゃないかと思います。

そんなこんなで天河に行って、丸24時間滞在しました。宿に泊まるお金はない
ので寝袋を持っていって、その日の晩は神社の境内で寝袋を敷いて寝ました。

翌朝、屋台のおばちゃんがなぜか車を貸してくれて、車で御手洗渓谷と、清浄大橋から
女人結界門をくぐって山上ヶ岳の中腹まで行って来ました。バスの時間の関係で
中腹でその時は折り返したのですが、女人結界門をくぐった瞬間から変わる
「空気感」が、まるで楔のように心に刺さって抜けませんでした。結局、このルートは
昨年の7月に山上ヶ岳から下りてくるルートとして踏破することになります。

今思っても、なぜ呼ばれたのだろう、と不思議でなりません。「呼ばれた」としか
言いようのない感覚で、引きずられるように天河に向かったのを覚えています。

でも、その旅こそが私にとって「次の旅」の幕開けだったのです。あの時、
もし天河神社に呼ばれていなかったら、おそらく私は修験道にも興味を持って
いないし、山上ヶ岳に登拝することもなかったはずです。そして吉野山との
つながりもなかったはず。今にいたる流れの原点が、天川村と、そして天河神社に
あるのです。

あと3日で吉野に向けてスタートしますが、書いている今もすごく緊張します。
吉野大峯と天河郷は、私にとって特別な意味と重さを持つ土地。安易な気持ちと
言うか物見遊山のつもりでは行けない土地なのです。呼ばれなければ決して
行けない土地でもあります。特に天河は、別格の地です。
| SHO | 修験道 | 23:23 | comments(4) | trackbacks(0) |
地球交響曲と修験道の不思議なクロス
友人にコピーしてもらった、『地球交響曲 第四番(龍村仁監督)』のDVDを
見ています。以前、同じシリーズの第五番を紹介したことがありますが、
第四番はガイア理論の創始者、ジェームズ・ラブロックが紹介されています。

私自身は、ずっと田舎暮らしに憧れているし、夢見ています。
面白いなぁと思うのは、ガイア理論にしろ修験道にしろ、私が関わっている
ものには、何かしら共通点がある、と言うことです。何が共通しているのか、
と問われると、今のところは答えに困ります。なぜなら「共通している」と言う
答えだけが私の中には直感的にあって、今はそれを裏付けている最中だからです。
ただし、私が直感的に感じていることはおそらく間違いない、と言う確信だけは
最初から持っています。

出演者のひとり、サーファーのジェリー・ロペスが言っていることと、修験者の
言っていることも何か共通している。何が共通しているのか分かりませんが、
本質的に同じことを言っているんですね。

私が昨年、修行で言われたことは「ただ、無心で登りなさい。それが一番楽に
登れる方法です」と言うことでした。実際に山上ヶ岳に登ってみて、たしかに
一番それが楽な登り方かもしれない、と思います。12時間かけて登った後、
一泊して目が覚めると身体が「今日もまだ行けるぞ」とつぶやいている。
その中で感じたことと、地球交響曲の登場人物や修験道の先達がおっしゃっている
こととは共通している。不思議なクロスを感じるんです。

私自身は、今、ひとつの旅の流れにいます。旅の流れはどこへ流れていくのか
分からない。でも、どこかに流れて行っていることは間違いありません。
おそらく、今の私は間違っていない、そんな気だけはしています。
| SHO | 修験道 | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
断食道場
今日、吉野山金峯山寺東南院の断食道場に申し込んできました。
と言っても申込書に署名して草津の郵便局から出しただけですが。
まだ参加の可否の返事が来るまで安心できないのですが、
参加できたら嬉しいですね。

くわしくは『はじめての修験道』と言う本に書かれていますが、
金峯山寺で春と秋の年2回、断食道場が開かれています。今回は
それに申し込みました。内容は何かと言うと、2泊3日の間、
断食しながらひたすら止観行(座禅のこと)です。断食行と
しても興味があるし、宿便を出す、と言うことをやったことが
ないのでやってみたい、と言うこともあります。

不思議なのは修験道の(と言うか金峯山寺の)修行で、昨年私が
参加した「蓮華入峯修行」と言う修行にしても、今回の断食行に
しても身体が大変なことは分かっているのですが、なぜかワクワク
いそいそと申し込んでいます。どうしてなのか分かりませんが、
行に入るのを非常に楽しみにしています。今年の蓮華入峯修行の
案内も草津へ来る直前に受け取りましたが、事情が許す限り
ぜひ行きたいと思っています。

申し込んだ帰りに、修行への往路の夜行快速『ムーンライトながら』の
指定券を取りに行ったところ、昨日発売されたばかりなのに今日の
夕方の時点で残席わずか2でした。もちろん窓際など取れるはずもなく、
今回は通路側を確保するのがやっとでした。「青春18きっぷ」の
シーズンでもなく、しかも平日なのにすごい人気ですね。大学生は
春休みに入っている時期だからでしょうか。本当に驚きました。

身体は大変なことが分かっているのに心がワクワクとしてしまう。
不思議なのは修験道の修行です。
| SHO | 修験道 | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
『エロスの国・熊野』
体の具合は、日一日と良くなってきています。
現在、最も良くない両肩と頭部についても、膿の下から新しい皮膚が再生
しつつあるようです。場所によっては、もうかさぶたが剥がれ落ちかけて
います。生気を失って死に絶えた皮膚が生まれ変わっていくまでの過程は、
まさしくrebornという言葉の通りです。

今、草津で『エロスの国・熊野(町田宗鳳著・法蔵館)』と言う本を読んでいます。
著者は現在、東京外国語大学の教授ですが、この本はアメリカ在住の
1996年に書かれていて、アメリカ・プリンストン大学助教授と言うのが当時の
肩書きになっています。14歳で京都の臨済宗大徳寺に出家、34歳で寺を飛び
出してハーバード大学神学部へ留学、のちに博士号を取得してプリンストン大学
助教授に就任しています。

章立てを見るとこの本の狙いがつかみやすいと思いますのでご紹介します。
初めから順に「追放と復活」「民族の原郷」「神と自然」「死と自然」
「エロスの国・熊野」そして「熊野の現代的意味」です。

さて、この本は最初に「追放と復活」をうたっています。自己を取り巻く、
ことごとく全てのものから、そして自分自身のあるべき姿から追放されるこの
状況を、どう受け止めて、どう復活のための「折り返し点」を見つけ出すのか、
心の中の長い長い旅がこの本のテーマです。そして、日本国内で歴史的に
「折り返し点」としての役目を背負ってきた場所のひとつとして「熊野」を
紹介しています。

「折り返し点」を経て復活するまでの過程に必要なものとして、この本では
エロスと言う要素に焦点を当てています。そして、そのエロスとは生きる環境を
取り巻く自然に他ならない、と言っています。

また、最終章で「熊野の現代的意味」と言うことに一章を割いています。
そして最終的な意図として「熊野の話をきっかけにして宗教と自然の関係を
明確にし、われわれ一人一人が混迷の時代を生き抜いていくための方向を
模索することにある」と書かれています。つまり、紀伊半島にある熊野と
言う地理的な場所に本の主眼があるわけではない、と言うことです。

そして、「本当に個人が自己発見するためには、人口過密の都会では無理なのでは
なかろうか。熊野における山林修行もその典型の一つだが、昔の修行者は
深山幽谷に入り、霊的エネルギーとしてのエロスを受けることによって自分たちの
意識を深化していった。現代の宗教家だけが自然から遊離していて、なおかつ
精神を啓蒙できるとは考えにくい。」とこの章を締めています。

今は山深い温泉で湯治に入っていますが、身体の快復もさることながら、
最近特に感じるのは心の快復です。毎日身近に雪の山岳地帯を臨み、林の中を
歩き、温泉の流れる音に耳を浸していると、自然と自分自身が一体になるような
体験、と言うものが確かにあるのです。この本の内容と自分自身の現在の
体験を重ね合わせて、心身ともに本当に快復を遂げるためには、自然と一体だと
感じる体験が必要なのではないかと思えてなりません。あまり意識していませんが、
人間だって自然の一部なのですから。
| SHO | 修験道 | 16:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
『修験道っておもしろい!』
数日前から、書店に行っては買おうか買うまいか悩んでいた(いつも
このパターンですが)『修験道っておもしろい!(田中利典著、白馬社)』を
ついに買ってきました。1ヶ月ほど前にご紹介した『はじめての修験道』と
ほぼ同時に発売されたエッセイ集です。

エッセイ集と書きましたが、正確にはエッセイだけの本ではありません。
前半は修験道修行の魅力や現在における修験道の存在意義と今後の展望が
書かれていて、後半に著者のエッセイとお葬式についての考えが書かれて
います。巻末には吉野山の金峯山寺の修行のうち、一般参加が可能なものに
ついての案内が付録でついています。

『はじめての修験道』の好調な売れ行きに対して『修験道っておもしろい!』
の売れ行きはそれほど良くないと聞いています。ただ単に中身の問題と
言ってしまえばそれまでですが、私は少し違う見方をしています。

両者は内容が重なる部分があるため、修験道に対して相当の興味を持って
いる人以外には、『はじめての修験道』と『修験道っておもしろい!』の
両方を買うことは勧めません。あえてどちらか一冊をと言われれば、
間違いなく『はじめての修験道』がおすすめです。成り立ちと教義について
系統立てて書かれており、修行に参加するための付録資料もこちらの方が
はるかに充実しているからです。修験道と言う宗教の概要を手っ取り早く
正確に知ることが目的であれば、『修験道っておもしろい!』は『はじめての
修験道』ほど親切に大量の情報を系統立てて書かれてはいないのです。

ただし、『修験道っておもしろい!』が面白くない本かと言われれば、
そういうわけではありません。修験道に関する多くの情報を知る
ことが目的でなければ、この本もまた面白い本です。

『はじめての修験道』は、かなり気合いの入った本です。ページの文面から
「修験道について、より多くの人にその実際の姿を知ってもらうぞ」と言う
雰囲気が伝わってくるのです。だから初学者が情報集めのために読むには
いいと思いますが、肩の力を抜いて読める本かと言うと、決してそんな内容
ではありません。文章そのものは努めて平易に書かれていますが、通勤電車の
車内で読む本ではあってもフィットネスクラブでエアロバイクを漕ぎながら
読む本ではないのです。

その点、布団に寝っ転がりながら修験者の素直な心情を赤裸々に綴ったものを
読みたい、と言うことであれば『修験道っておもしろい!』の方がいいと言うことに
なります。

両者の売り上げの差は、修験道に対する一般の方のスタンスの違いでは
ないかと私は推測しています。今の時点では、修験道について「知らない」
と言う人の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。そして「正確に、
ちゃんとした情報をより多く知りたい」と言う目的には『はじめての修験道』
の方が向いていると私は思うのです。

ある程度、修験道に関する本を読み漁り始めたら、今度は少し肩の力を抜いた
もの、山伏の実際の生活や素直な心情について書かれたもの、また、特に
奥駆についてその全区間踏破の実際を知ることのできるもの、と言う選択肢が
出てきます。その時に初めて『修験道っておもしろい!』の価値が出てくる
のではないでしょうか。

まだ、修験道に対する世論はそこまで成熟していないのだろうし、仮に成熟
しても、今度は五條順教さんの「修験道のこころ」などと読者対象が重なる
ことになります。そうなった時に比較されると、この本は内容が多岐に
渡っていてまとまりがない分、あらゆる切り口で修験道の教えを分かりやすく
説くことに専念した本よりも評価が下がることはあると思います。

『はじめての修験道』と『修験道っておもしろい!』の両者は、ひとつの
実体の表と裏のように見えます。もちろん、『はじめての修験道』が表で
『修験道っておもしろい!』が裏です。どちらがいいとか悪いとかでは
なく、両者が実は支え合っているように見えるのは私の身びいきでしょうか。
| SHO | 修験道 | 01:07 | comments(5) | trackbacks(0) |
フィットネスクラブで奥駆を思う
今日は鍼を打っていないので、光線を当ててからフィットネスクラブに
行って来ました。自転車を50分×2セット漕いでから、サウナに入って
すっきりと身体の老廃物を出してきました。今週はずっと皮膚の調子が
悪くて、身体の表面近くに老廃物が溜まっているような感じがずっと
していたのです。

エアロバイクを漕ぎながら、暇なので音楽を聴きながら今日買ったばかりの
『修験道っておもしろい!(田中利典著、白馬社)』を読んでいました。
そんなことをしているうちに、なんだか変な感覚に襲われました。

1時間近く漕いでいた時のこと。「エアロバイクを漕いでいると、身体の
老廃物がどんどん出ていく感じがして気持ちいいなぁ。蓮華入峯修行に
行くとこれが1日、奥駆に行くと1週間もこれが続くんだなぁ。なんて
素晴らしいんだろう」と思った瞬間に、「今と言う時間が一瞬であり、
同時に永遠でもある」と言うことを実感として身体の中で感じたのです。
身体の中で複数の次元が流れているけれど、その実体は同じであるとでも
言いましょうか。

『修験道っておもしろい!』の中で、修行の目的として「山と一体になる
ことを目指す」と言うことが書いてあります。1991年に亡くなった長谷川恒夫
さんと言う登山家が、最後になったウルタル曲と言う山に登る前に
「今回の登山のテーマは、調和です」とおっしゃっていたのですが、
これと同じようなことを言っているなぁ、と感じました。

私はこの意見に異を唱えるつもりはありませんが、「時間そのものと
一体になることを目指す」と言い換えても同じことだろうとも思いました。
そして時間と一体になる瞬間というか、その感覚は実はフィットネスクラブに
いてもできることなんだなぁ、と言うのが、当たり前なんですが驚きでした。

一瞬と永遠が実は同じものだと身体の実感で感じると言うか、このまま
ずっとエアロバイクを漕ぎ続けていたいような、ただ自分がそこに「ある」
と言う感覚に襲われたのは初めてでした。話には聞いていましたが、いざ
自分がなってみると、複数の次元に自分がいるとしか言いようのないような
変わった感覚でした。

どこで修行するかが大事なのではなくて、究極的にはどういう感覚を
目指すかが大事なのでしょうか。この感覚がずっと続くようにと思い
ましたが、実際にはわずかな時間だったはずです。運動を終えてみると、
自分の身体が空洞であることを感じると言うか、自分の身体と魂が
同じ空間座標に位置している別物であると言うか、なんとも言えない
感覚でした。

私はサウナに入る前のシャワーは必ず熱い湯を浴びるのですが、
シャワーの熱いお湯を浴びると思わず足がガクガクと震えて、腰が
落ちそうになるほど気持ちよかったです。こんな感覚も初めてです。
究極の快感とはこのようなことを言うのでしょうか。今まで何千回と
シャワーを浴びたことがあるはずですが、こんな感覚も初めてでした。

奥駆は、行ずることによって身体レベルで「感ずる」ことに大きな意義が
あるのかと私は理解しています。まだ蓮華入峯だけで奥駆への参加経験は
ない私ですが、「奥駆に参加することには大きな意義があるけれど、奥駆で
なければ身体レベルで感ずることができないか」と言うと、そういうものでは
ないのでしょう。無心に漕ぎ続けることが大事なのだと言う気がしました。
| SHO | 修験道 | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
著者が来訪・・・。
先日ご紹介した『はじめての修験道』の著者でいらっしゃる、田中利典
金峯山寺執行長様が当サイトにいらっしゃいました。ブログ日記のコメントに
載っている「吉野山人」さんがそうです・・・。

私は携帯電話でブログ日記へのコメントを読んでいます。だから
職業訓練校にいてもコメントが来れば読むことができます。
訓練の休み時間にメールを受信してびっくりしました。

こんなこともあるのですね。

『はじめての修験道』と、田中利典さんのエッセイ『修験道っておもしろい!』を
Recommendのコーナーに登録しました。amazon.comで買えますので、
もし興味がおありの方はのぞいてみて下さい。
| SHO | 修験道 | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
『はじめての修験道』
今日、数日前に書店で見かけてからずっと気になっていた

『はじめての修験道(田中利典、正木晃 共著、春秋社)』

という本を買いました。名前の通り、修験道の現状とその成り立ち、
今後の展望について平易な言葉で書かれた本です。著者は現役の
山伏と大学の宗教学者です。田中さんには、今年七月の蓮華入峰修行
という修行でお世話になりました。

まだ全部読み通せたわけではないのですが、修験道の精神文化を
知って欲しい、山伏の本当の姿を知って欲しい、という想いで
書かれた本だそうです。今年の11月25日初版発行ですから、
まだ出たばかりでホヤホヤの本です。

修験道の特徴は、自然そのものを信仰することにあります。山岳抖そう
と言って、修験道にとっての聖地である山の中をひたすら歩き続け、
掛け念仏という念仏を唱え続けることが修行の多くです。「実修実験」
と言う言葉がありまして、「修行を実践して、体験を実現する」という
意味なんだそうです。

例えば、私が今年の夏に行って来た「蓮華入峰修行」という修行では
吉野山金峰山寺から大峰山・山上ヶ岳まで24kmの山の中を一日かけて
歩き通します。朝の3時半に出発して午後3時頃に到着するのですが、
途中は上り下りが激しく、足場の悪い道が続くので危険だし大変です。
私も歩きながら意識が朦朧としたことが一度や二度ではありません。
でも、百日回峰行という行に入るお坊さんは同じコースを後半五十日は
毎日往復するのだとか。常人には考えられない荒行です。

そうした体験から感じたもの、得られたものは、私は信頼していいと
感じています。どんなに考えていても、考えているだけでは煮詰まって
しまって動けないことがあります。そんな時、実際に身体で動いて
心も身体も汗をかいてスッキリすると「ふっ」と何かが降りてくる
ようにアイデアが浮かぶことがあります。

そんな感覚から得られた発想、アイデア、あるいは感じたことの
集積というのは、うまく言えませんが、この世と表裏でつながって
いる異界への回路を開くような気がするのです。この世はこの世で
あってこの世でない、というか。

まだ私もこの本を全部読めていないので、自分の体験を交えながら
紹介することになってしまいました。でも、実際の行動を通して
検証された知識というものは、基本的に信頼できると私は感じます。

修験道についての入門書には、他にも講談社学術文庫に収録されて
いる宮家準の『修験道』や、金峰山寺管領の五條順教さんが書かれた
『修験道のこころ(朱鷺書房)』などがあります。もし手に入るので
あれば、1970年頃の本ですが、大谷大学の教授だった五来重さんの
『山の宗教 修験道(淡交社)』という本もあります。

学術的には『修験道』がいいと思いますが(手に入りやすい本ですし)、
学術的なので私には難しく感じました。『修験道のこころ』は、修験道の
教えを噛み砕いた言葉で説明しているので一般の方にもおすすめですが、
あくまでも教えを分かりやすく書いたエッセイなので、やや物足りなく
思う方もいらっしゃるかもしれません。その点、『はじめての修験道』
は、修験道の成り立ち、教義、現在と未来に向けての視点、修行への
参加の方法などが分かりやすく書かれています。初めて修験道の本を
開く方から、多少の知識と興味があって実際に修行への参加を考えて
いる方まで広く対応できる本です。

『山の宗教 修験道』は、1970年頃の当時の修験道の実際の状況が
記されていて貴重だし、文章も読みやすくて私は好きな本ですが、
情報が古いので修験道に関する最新の情報を知るには不適当です。

『はじめての修験道』の巻末には、修験道に関係する寺社のうち現在も
神道化されていない寺のリストと各寺の説明が載っています。現在も
ホームページを持っていない寺が多いので、もし修行に興味のある方が
いらっしゃればオススメです。
| SHO | 修験道 | 23:48 | comments(7) | trackbacks(0) |